秦野市堀山下670番地に明治初年まで、岩舟堂という地蔵を祀るお堂があり、その敷地の一角に文政10年(1827)天社神という地神塔が建てられました。碑を建てるには講中組織があり、講中の人々が資金を出し合って碑を建立したものと考えられます。それから子孫に引き継がれ約200年間続いています。

堀山下地区上関の地神講

 地神講は豊作祈願のための情報交換と農作業の休養日であったと言われています。講の当番(宿)には道具の掛軸と講中名簿が受け渡されます。平成3年の名簿17戸、平成20年版では10戸が記載されています。

 営農情報は農業協同組合発足により細かく入ってくるようになりました。また天気予報も毎日見たり聞いたり出来るようになりました。このような状況となり、当番の負担を軽減したことにより、今日まで続けられたと思います。現在は社日の日程を確認し、講中の方々のお札の注文を確認して配布し天社神にお参りします。

上関の地神塔

上関講中名簿

井上スエ子(84)様との対談から

 私(井上スエ子)が地神講に初めて参加したのは、昭和36年でした。講の宿は社日の日に掛軸を飾り、その前に線香とお礼を供えた。講中の人は来訪し参拝すると、多くの女性はお茶を飲みながら雑談をし、帰りにお礼を持ち帰りました。来られなかった家には、後日配布しました。平成10年に私の家で宿をしたが、以前と同じ方式でした。

 現在の宿当番の方は社日の半月ほど前に、お礼の希望を確認して宮司に注文し講中の家に配布する方式になっています。この方式になったのは、平成12〜13年頃だと思います。昔は「宿の家に食材を持ち寄って会食をしていた。」という話は聞いたことはあるが、何時ごろまでやっていたかは解りません。

堀山下地区の地神講

 現在堀山下地区では上関と宮久保で地神講を運営しています。

下 関30年程前に中止した。
北 庭20年以上前に4戸となり中止した。
宿はお茶を出していました。そばを出したこともあります。
宮久保12戸で社日の日に堀山下自治会館に集まり、仕出し弁当を取り実施しています。
鍛冶ヶ谷戸7戸で運営していたが、15〜16年前に中止した。
大 倉30年程前に中止した。山の講は50年程前に中止した

あとがき

 春の社日の日に地の神様が天から降りてきて、秋に天に昇ると言われています。農作物は天候に左右されることがあります。庭師の西村実さんは「俺は土いじりをするから地神様を大事に信仰しているんだ。」と言っていましたが、浄土の世界に行ってしまいました。
 太平洋戦争が始まると、天気予報が軍事機密となり敗戦まで新聞やラジオ報道から消えました。農家の方々はどうしていたのだろうか。「大山に雲がかかっているから」「月が笠をかぶっているから」
雨が降る等と言えば、軍事機密を漏らしたと疑われるという生活を想像してしまいます。庶民を苦しめる戦争をしない世にしてほしい。