秦野市堀山下の蔵林寺では昨年、鐘楼が改築され(写真1)大晦日に久しぶりに除夜の鐘が檀信徒の皆様により打ち鳴らされました。この梵鐘には寛永9年に南足柄千津島の鋳工職人により作られた事が記されています。秦野市では西田原の香雲寺の梵鐘に次ぎ2番目となる古き梵鐘です。梵鐘にはほとんど余地がないほど寄進者の名前が刻印されています。
その中から、梵鐘に刻まれている一部を紹介したいと思います。
「当郷山下地頭森川出羽守、
時寛永九甲壬暦卯月四蓂
同山下地頭甲州武河大守、
為天誉道普居士、同山影宗義菩提、米倉后室寿公」 (註1)
森川出羽守は当時堀山下村の一部を拝領していました。その為、梵鐘造営に寄進されたものと思います。森川出羽守重俊の経歴を見ると寛永4年(1627)1万石に加増され大名となり、下総国生実藩の藩主になりました。
寛永8年(1631)3代将軍徳川家光の幕府老中に昇進。寛永9年(1632)1月24日2代将軍秀忠が亡くなると、翌日後追い自害をしました(行年49歳)。この事から梵鐘が完成したと思われる4月には故人だった事が推察されます。
次に甲州武河大守について、天誉道晋居士は米倉永時の戒名で、米倉一族で初めて当地堀山下村200石を拝領し、寛永元年2月に亡くなっています(註2)。山影宗義は米倉永時の長男で大阪夏の陣(元和元年5月8日)に出陣して討死(行年27歳)しています。米倉后室寿公は米倉永時の妻で同郷の甲州武河の地侍、柳沢信俊の娘です。
また、米倉后室寿公の弟、柳沢安忠は堀山下村の鎮守堀の郷正八幡宮に吊燈籠一対を寄進しており、同八幡宮に現存保管されています
この梵鐘から江戸時代初期の時代背景が見えてきます。森川出羽守を調べた事で、主君が亡くなると直近の家臣が後に続き自害する事を改めて知りました。
また、米倉家と柳沢家との親戚関係はこの後、さらに深めていきますが、両家共見事な躍進をはたすとは、当時誰も思い及ばなかった事でしょう。
柳沢家は5代将軍綱吉に重用され柳沢安忠の息子、吉保は大名となり甲府城主となります。
米倉家は永時の孫、昌尹が5代将軍綱吉の命を受け犬小屋普請奉行や重職を拝命し1万5千石の大名になります。
蔵林寺の梵鐘を見学された際にはぜひ、梵鐘に刻まれた文字にも思いをめぐらせ、今年390年の節目を向かえた梵鐘から秦野の歴史の一コマに加えていただく事を切に望みます。

改修された鐘楼全景

註1:市史研究 あしがら 第2号 「千津島鋳物師の足跡を訪ねてー真田天徳寺と堀山下蔵林寺の梵鐘銘―」石塚 勝 1990. 1.南足柄市史編集委員会
註2:寛政重修諸家譜巻第百六十九 清和源氏 義光流 武田支流 米倉